秋の月があまりに明るいのに驚かされた。
先日、長野県飯田市近郊の大平宿(おおだいらじゅく)の古民家に泊まったときのことだ。澄み渡る夜空に流れるうす雲がはっきりと見え、何の灯火も無く山道を歩くことが出来た。
江戸では、九月十三日夜の月を「後の月」とか「十三夜」と呼んで、八月の十五夜と同じように団子を供えて祝った。菊池貴一郎の「江戸府内絵本風俗往来」によると、両者には二点の区別があったそうだ。まず、団子の数。十五夜では十五個だったのに対し十三夜では十三個。江戸っ子らしい軽いこじ付けがいい。もう一つは、十五夜の団子には餡をつけて食べたが、十三夜には黄粉を用いたとある。細やかなこだわりに風情がある。
いや、江戸っ子のこだわりはこんなものでは終わらない。十五夜を祝った者は必ず十三夜を祝わなければいけないと言われた。どちらか一方だけのことを「片見月」といって忌み嫌った。
片見月の起源が実は吉原のマーケティングにあったというおもしろい説がある。十五夜に登楼した客が十三夜にも登楼しないと片見月だと言って揶揄し、水揚げ増加を図ったのが始まりだというのだ。「よもや片見月など野暮はよしにしてえ。十三夜もきっと来ておくんなんし。」などという嬌声が聞こえるようだ。
ちなみに今年の十三夜は、グレゴリオ暦では十月八日だった。
さて旧暦十月。「風俗往来」の十月の部の書き出しが、実に気持ちのいい名文なのでそのまま引用する。
「『菊香晩節梅小春に応ず』と。また『斗杓北を指し日影南に回る』など、この月をいいしなり。四方山の紅葉は唐紅を染め出し、鹿は初音を鳴く。山路に会式桜の花やさしく咲く。小春日よりの麗閑寂々たる茶室にはニ、三客口切りの味淡白にして、月末になるより初しぐれ催し、日脚短きをいぶかる。野外の散歩夜の長きを歓ぶ。居職人の夜なべ追々寒さ増すに随い、昼夜火災の数の繁くなるは、江戸の名物となるもおかしけれ。」「斗杓」とは「トヒョウ」と読み、北斗七星の柄杓の柄の部分、第五、六、七星のこと。
やはりこの時期のハイライトは紅葉狩りか。
霜に酔った木々の唐紅が盛りとなるころから、西は王子の滝の川、南は品川の海晏寺は紅葉の名所として、雅人、文士の林間に杖を曳くものが絶えなかった。しかし、壮年の人や婦女子は来ることがなく、これらの遊びはご隠居、詩歌人、書画家、俳句連句の宗匠、医家、寺僧、茶道方のみに限られ、武家ならば四十歳以上のものが多かったとある。花見のように庶民一般の行事ではなかったようだ。
紅葉の名所としては、上野東叡山山中、谷中天王寺、滝の川、根津権現境内、品川東禅寺、高田穴八幡宮境裏、大塚護国寺山中、大久保西向天満宮地内、角筈十二所権現社地、目黒祐天寺、芝増上寺、弁財天池辺、鮫洲海晏寺、目黒滝泉寺、浅草観音奥山と数多く挙げられているが、「今日(明治三十八年)はその風情皆昔時と相違せること実に甚だし。」とあるから、当時はよほどきれいだったのだろう。
ついでに、永井荷風の随筆「日和下駄」の「第三 樹」の章には次のような記述が見える。
「銀杏は黄葉の頃神社仏閣の粉壁朱欄(ふんぺきしゅらん)と相対して眺むる時、最も日本らしい山水を作す。ここにおいて浅草観音堂の銀杏はけだし東都の公孫樹中の冠たるものといわねばならぬ。明和のむかし、この樹下に楊枝店柳屋あり。その美女お藤の姿は今に鈴木晴信一筆斎文調らの錦絵に残されてある。」
「風俗往来」十月の部にはほかにも数々の面白い記事があるが、紙数の都合からあとひとつだけ珍しい話を取り上げる。
冬になると武家の少年たちの目白、ひめ、あとり、ひわその他種々の小鳥を捕る姿が見られたそうだ。これらは、駒込千駄木あたりに地屋敷を構える小禄の旗本や御家人の子弟らで、いろいろな方法で巧みに捕えて、飼いならした。また、文武練習のいとまに、鶯、鶉、駒鳥などを入れた籠を仕立てて、「鳴き音を聞き楽しむを、上なき遊びとしたりける」というのだから、子供といえども風雅な趣味を持っていたものだ。
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最終更新日 : 平成十五年十月四日