無くて七草
04/01/15
七草とは文字通りもともと七種類の草をさすが、江戸の後期はすでに春の七草をなずなに代表させていたようである。なずなとはぺんぺん草のことである。
『江戸府内絵本風俗往来』は、「七種」の字を使って項を設けている。紙面節約のため原文は略し、いきなり拙訳を記す(駄洒落注意!)。
「正月もはや七種の日となると、商人は商売に忙しくなる。逆に、武家は、七種までは年初恒例の仕事に忙しく、七種を過ぎると普段の状態に戻る。六日の夜には各家が昔からのしきたりに従う。しきたりなどと言うと、開化以後は空しく響くことも多いだろうが、変わらぬ御代とお祝い申していた当時は当たり前にこれに従っていたのだ。すなわち、台所の板の間では紋付の小袖に麻の上下(かみしも)で、『遠土(とーど)の鳥の渡らぬ先に』と唱えながら、恵方に向かって若草を打ち囃す。ストトントンと、家々に響き渡る。この日に門の松飾やしめ縄を取り外して、明けて七種には若菜の粥を食したのが当日の祝いであった。」
七草の祝いについては調べてみると奥が深く、とてもここで詳述することはできない。ほんの少しだけ触れる。
一月七日は、江戸時代には五節句の一つである「人日(じんじつ)」として重要な節日であった。元日正月の終わりとも、旧正月(一月十五日)の始まりだとも解釈される。「七日正月」という呼び名もあった。したがって前日は、大晦日や節分と同様に年越しの日であった。地方によっては「神年越し」とか「馬の年越し」とも呼ばれる。
七日朝の粥の習慣は古く、また全国的であった。
ちなみに、枕草子第一三四段には次のような記述が見える。
「七日の日の若菜を、六日に人の持て来、さわぎとり散らしなどするに、見も知らぬ草を、子どもの取り持て来たるを・・・」
「遠土の鳥」の囃しとともに七草を打つのは、もともとは年男が勤める慣わしだったようだ。
『風俗往来』は「遠土」の字を当てているが、「唐土」を使うほうが一般的で、「尊と」が正しいとする説もある。
三省堂の「明解 古語辞典」によれば、その全節は、「唐土の鳥が日本の土地へ渡らぬ先に、七草なづな手に摘みいれて」などと言ったそうだ。「日本の土地」という文句をみるとどれほど古い時代の節か疑問も湧くが、古語辞典の解説だけに、まさか明治以降のものではあるまい。
この習慣を「七草を囃す」とか「なづな打つ」と言ったそうだ。
囃しの文句の詳しい来歴は知らぬが、要は、渡り鳥が来る前に、つまり季節が変わらぬうちにということ、適切な時節にということだろう。
トウが立つ前になずなの若草を摘んでということだが、新暦の一月七日にそう言われても逆にまだ早すぎる。
有難いやらめでたいやら。
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最終更新日 : 平成十六年一月二十日