雨の七夕


03/07/07

七月七日の七夕は、私が子供のころ一番好きな祭りだった。織姫と彦星の伝説が子供心にもロマンチックに切なく感じられたこともあるし、星に願を掛けるというのがなんとも神秘的で、いかにも叶えられそうな期待を膨らませてくれた。

江戸時代の七夕はもちろん旧暦の七月七日に行われた。今年で言えば、新暦の八月四日である。

明治政府が打ち出した数々の新政策は、必ずしも江戸の庶民に評判が良くなかった。中でも暦の改変は、それまですべての行動基準を旧暦に置いてきた生活者たちにはとてつもない不便を強いたに違いない。生活上の不便にとどまらない。日本人が長い歴史の中で築いてきた麗しき季節の文化まで壊したのだ。

明治三十八年に出版された「江戸府内絵本風俗往来」という本がある。その上編の序文で、著者菊池貴一郎は新政府の文化破壊に次のように痛烈な皮肉を浴びせている。

「昔江戸時代、正月年始の言葉には、「相変わらず」と祝しあえりしが、今は年々相変わるをよしとするは、日進文化の故なるべし。(中略)三月弥生の雛遊は、かたばかり残れり。(中略)四月三日はかけまくもかしこき神武天皇の御祭日、桜も咲きそめ、諸所の花見の目出たき季節とはお釈迦様でも気がつくまえと、与三郎が狂言尤もなり。永らくさびれし五月端午の節句も、戦時の今日軍人形の姿を見れば、昔を思うこころぞする。(中略)七月の魂祭は生き残りの老男老女の気やすめ、時節に合わぬ粟穂(あわぼう)稗穂(ひえぼう)、ただ盆やりと影のみは、七夕祭にはましなるかや。八月十五夜も陽暦の今日は、月も団子と縁を切りたり。(後略)」

明治政府は、二つの理由から必死に過去を全否定しようとした。ひとつは、幕藩の旧体制を絶対悪とするため。そしていまひとつは、鹿鳴館に象徴されるように、西洋式の制度と生活様式を身につけることで、日本が「文明国」であることを諸外国に印象付けるため。

犠牲者は浮世の人ばかりではなかった。彦星と織姫は真夏の夜の逢瀬を禁じられ、替わりに梅雨真っ盛りの天の川に晴れ間を期待するほかなくなったのだ。おかげで二人の思いが成就される機会は甚だしく減殺された。明治の「文明開化」ほど非情で野暮なものはない。

「風俗往来」によれば、江戸時代、七夕の竹には、色紙のほかにホオズキを数珠のように連ねたものを結び付けたそうだ。さらに、紙製の硯、筆、西瓜の切口、鼓、太鼓、算盤、大福帳などをつって、前日から屋上高くたてた。そして、当日夕に一本残らず取り払って川に流すのが決まりであった。

何千何万と空高く揺れる笹飾りも、大川に累々と流れるそれらの様も、さぞ壮観だったろう。大量に流されようと、すべて竹と紙。自然浄化できれいになって、白魚住める大川の清らかさは永遠に続くはずであったのだが。

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最終更新日 : 平成十五年七月七日