ぼくなりにまとめてみました。
まず、一般に日本社会に父性が足りない、または自立心が足りないというのは、 大方異論の無いところでしたが、これがいつからなのか、どうしてなのかという問題には、まだ十分な議論が無かったと思います。
この議論は日本に民主主義が根づいているかどうかという議論と不可分のものと考えます。
まず、父性の核心は自立だと考える。他から統治されないということ、自分が統治するということ。
統治するためには、規範、方針、戦略が必要。
日本国、日本社会がこれをはっきりと放棄したのは、戦後。憲法、国防、道 徳まで含めて、全てアメリカにお任せした。
日本社会内部に統治者(あらゆる意味での)が居なくなったのだ。
同時に「民主主義」も移入されたのだけれども、もともと民主主義というのは、国民が自分たちを統治するという原理に基づく。
つまり国民のレベルに父性原理、統治原理が要求される仕組み。
しかし、これが満たされてないわけだ。
勝ち取った民主主義ではないから。与えられた民主主義だから。河合隼雄系の言葉を使えば、「父親殺し」をしていないのだ。
さてでは、戦前はどうだったのか。
きっと、家庭には厳格な父親がいた、つまり、父性はあった。
日本国全体について言えば、ここでの大きな問題が、天皇制。もっと言え ば、天皇の神格化が問題。天皇が父親とされ、臣民はすべて(政府の要人も含めて)これに従う子供。
しかし勿論、これは国家的な虚構。実際上、天皇が国を動かしていたわけ ではない。
ここんとこが肝心なのだが、実際に天皇が本当の意味で日本を統治していたのなら、まだ良かった。一つの虚構に国家全体が振り回されずにすんだという意味と 実際に統治者が存在していたとい意味で良かったと思う。
ところが、天皇は神として絶対化されたものの、しかし統治していなかっ た。天皇の権威を神聖化した上でこれを国家権力が利用して統治した。つまり、本当の統治権者を曖昧にした形で、国が動いていた。父性の所在 はうやむやだったのだ。 と言うか、父の責任を誰も引き受けないで済むような仕組みを作ってしまった。父性の空洞化。
父親の実態が無いのだから、「父親殺し」ができない。父性が獲得できない。
明治維新後しばらくは、事情が違っていた。
明治維新を実際に成したのは、天皇ではなくて、薩長をはじめとする雄藩。 維新 の英雄たちが統治した。統治者たちは勿論天皇を神と思っていたわけもなく、統 治者とすら認識していなかった。
(参考: 伊藤博文は帝国憲法制定会議において、長年の憲法政治の実績を持つ欧州と比較して、憲政の歴史を持たない我国は、それを始めるに当たって、国の「機軸」として天皇を必要とすると述べている。すなわち、国家経営の実利的計算に基づいて、君権の必要性を説いている。)
言論の指導者たちもそれをよく認識していた。
(参考:福沢諭吉は「痩我慢の説」で、「抑も維新の事は帝室の名義ありといえども、その実は二、三の強藩が徳川に敵したるものより外ならず、」とか、「明治政府には専制の君主なく、政権は維新功臣の手に在りて、」などと書いている。)
指導者層に明示的に共有されていたこの認識が、時を経るにしたがって風化し、 元老たち(および、その世代の言論人)が亡くなると、統治主体が空洞化し、神国日本、皇国日本の虚構が、指導者層を含むすべてのレベルを支配するようになる。つまり、天皇の絶対性の虚構を統治者たちさえもがおおっぴらに虚構と言えなくなる過程で、「最終的責任者」が、この世に存在しなくなったのだ。みんな被統治者になってしまった。
もっと溯って江戸時代には、階級があって、統治階級として武士が存在した。だから、明確に統治者の原理、父性原理が在って、これが実際に社会の運営に反映されていたはずだ。
その辺の事情は、欧州の封建時代と大差無かったと思う。
違っていたのは、その後の政体の変遷が、欧州では内部的な要因によって必然的 に進んできたのに対し、日本では、外部からの圧力によって急遽おこらなければならなかったことだろう。
その結果、欧州では、統治原理が、支配階級から一般国民に吸収されて行った。支配階級、貴族の精神文化とともに。これに対し、日本では、明治維新、戦前、米軍占領、戦後と時代が進むにつれて、武士、支配階級の精神文化が社会の表から一掃されてしまって、被支配階級の精神文化 が社会全般を席巻したのだと思う。
統治の精神を国全体が放棄した。
「長いものには巻かれろ」「赤信号みんなでわたれば・・・」などが、あたかも 日本古来の文化における支配的な精神的態度であるかのように言われるが、これらは、明らかに武士の倫理に反するもの。
これらは、日本に限らず、前近代的な社会の被支配階級に共通な精神的態度にほかなら ない。
きっと、日本社会が民主主義的精神を身につけていくのは、ようやくこれからのことなのでしょう。あらゆる方面で国家経営の破綻が目につき出した、今この時から始まるのでしょう。
始まることを祈るしかない。
最終更新日 : 平成十五年二月二十日