97/09/23
ぼくは昔から、「偏差値をなくせ」という議論をばかげた議論だと考えています。偏差値はものさしに過ぎないからです。しかもものさしとしては大変よく出来ています。
100メートル走を競うには、正確な巻尺と時計が必要です。「巻尺や時計が正確すぎて非人間的だからなんとかすべきだ。」とか、「巻尺や時計などという道具で人間の価値を計ろうとするのは間違いだ。」という議論が起きないのに、偏差値についてだけそれが起こるのはなぜでしょう。
おそらく、そういうことを言う人は問題をすりかえる事によって無意識に自分を守ろうとしているのだと思います。もっと過激な言い方をすると、自分の人生の責任を他人になすりつけようとしているのだと思うのです。
ここだけの話ですが、ぼくには二人子供がいて、二人とも偏差値がさほど高くありません。でも、ばかだとか、頭が悪いとは思っていません。ましてや人としての価値が高くないなんてとんでもない。
偏差値は、いわゆる学力を見るものさしで、それ以上のものでは有り得ない。ぼくはいつも子供たちにそう言っています。頭のよさなんてそんなに簡単に計れるものじゃない、東大出たって馬鹿もいれば、大学出なくたって頭のいい人はたくさんいる、また頭の良さにはいろんな種類がある、などなどと言い聞かせています。それでも、子供を塾に通わせています。
偏差値を批判する人は、実は、学力が頭の良し悪しを決める、人の価値を決めると心底信じている人たちです。でなければ、偏差値に目くじらを立てる必要などない。巻尺や時計を目の敵にする必要がないのと同じです。
自身が心の奥では学力と人の価値を混同しているものだから、そして、表面上はそれを善しとしていないものだから、その葛藤がストレスを生んで偏差値という象徴、または、偶像に対する憎しみとなって現れるのでしょう。
子供の学力を計る必要があると考えるなら、適切な物差しで他者と比較する事を受け入れないわけには行きません。もし学力のレベルは一切気にしないというなら、もともと問題は存在しない事になります。
どちらもいやだというのは責任の回避です。ちなみに、ぼくは子供の学力をなるべく正確に知っておきたいと考えています。
世の中には、東大もそれ以外の大学も、専門学校も有ります。また、学校へ行かないという道も有ります。自分の、あるいは自分の子供の可能性を信じて、どれかを選ぶしかないのです。幸い、日本の社会は多様な人生を許容する社会になって来ました。
自分で自分の人生を選ぶ勇気のない人たちの群れを救う手だては有りません。
97/09/23
およそものごとの評価には定量的な面と定性的な面が有ります。人間を評価する場合には、定量的に出来る部分というのはほんの小さな部分でしかない。定性的な評価のほうが圧倒的に大切です。学力(頭の良さと同義ではありませんよ)などというのはそのまたほんの一部分なわけです。
これを世の大人たちはしっかり理解しなければなりません。理解するだけではだめで、しつこいくらいに子供に言い聞かせなければいけません。多くの親たちがこれをやっていればそれだけでも問題解決に随分役立つように思います。その前に自分に言い聞かせるべきか。
学校の入学試験が、しかし、ほとんどこの学力で行われているという事実がある。これをどう考えるかがポイントだ、とこういう議論になりそうなのですが・・・
しかし、ひるがえって考えてみると、学力以外で入学許可をもらえるシステムが全然ないわけではない。野球、サッカーその他のスポーツが得意な子供がそのおかげで入学できるケースは随分ある。音楽学校や美術学校なども全国に相当数あると思われる。また、入学金や授業料が高いために親の資力が実質的に大きな選考基準になっているケースもある。
さらに、前の発言でも言いましたが、今ではいろいろな専門学校、各種学校があって、やる気ならほとんどなんでも学ぶ、いや、習う事が可能のように思います。
だから、やっぱり、あまりに多くの人が子供の学力にこだわりすぎるということが、問題の核心だと考えざるを得ないのです。
で、そういう認識が広がり始めると、つまり、悪いのは偏差値じゃなくて親の意識の持ちようだという認識が一般化し始めると、自分の子供をどうしても敗者にしたくない親たちは、今度は学力以外の何かで子供を勝たせなければならないと思うようになります。
野球部に入れたり、ピアノやバイオリンや、水泳教室や・・・
次にこれもしんどいという事になると(たいていなるわけですが)、何もかも競争はよくないと言い始めるのでしょう。ヤレヤレ。
もっと、子供を放っておくことが必要なのでしょうね。
結局、親の過保護病が根本にある。どうもそういう結論にならざるを得ないみたいですね。それで、この過保護病も母性過多が原因という事でしょうね。
97/09/24
ぼくはこんな風に考えます。
価値というのは、ぼくが前に言った定性の部分ですね。つまりこれは、定量に対する概念で、「計れない」わけです。比較できないわけです。
で、この計れないもの、比較できないものを大事にするためには、それ相応の自信がないといけない。この自信が日本人に欠けているように思うのです。自分の主観に自信を持たなければならないのです。ところが普通の日本人は、自信を獲得するためには、客観的な評価を受けなければならないと勘違いしているのです。これでは、いつまでたっても本当の自信など得られない。
まずは徹底的に主観を磨くことが重要です。
西洋人とでも中国人とでもちょっと話していると分かるのですが、どんな話題でも、ほんとの意味でコミュニケーションするというのは、主観と主観をぶつけ合うという事であって、決して、客観的な事実を確認し会うことなどではありません。お前はどう思うのだという問いを投げ合うことです。
ちょっと話がずれました。言いたいことは、計れないものこそを大事に育てようということです。そのためには自信が必要だということ。他人の評価などものともしない自信が必要だということです。
そう言えば最近「ゴーマニズム」が一部で大いに受けていますね。これは上のような事情をようやく日本人が認識し始めた兆候でしょう。大変喜ばしいことです
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最終更新日 : 平成十五年二月二十日