これおもしろいと言うか、不思議と言うか、ほんとに逆説的なんですよね。
自己、主体というのは、一種コノ玉ねぎみたいなものなんですかね。例のいくらむいていっても結局芯はないというアレ。包まれて包まれて初めて一つの固まりとして存在するというか・・・。よくわかんないですねこれじゃ。
外側で空気とふれあう部分で皮が出来てはじめて自分が出来ていくというか。???
アインシュタインの相対性理論ね。あれを解説する本の中でよく出てくる話なんですけどね。ここに一個の物体があるとして、それはあなたという人間でもいいんですけど、この宇宙にその物体以外何もないと仮定すると、はたして、その大きさだとか、重さだとか、計れるだろうか、意味があるのだろうか。それは、動いているのか、止まっているのか、動いているとするとその速さは?そこではそもそも時間が存在するのか。なんてやつです。
あるいは、あなたが夜寝ている間に、からだが膨れて朝起きたら昨日の二倍の大きさになっていたとする。でもあなたのからだだけではなくて、ベッドも、家も、外の木も、宇宙の何もかもがやはり同じようにぴったり二倍に大きくなっていたとしたら、いったいあなたが大きくなったということに意味があるでしょうか、とこうくるんですね。
さっきの玉ねぎの皮に戻りますとね、この皮が何層にも重なっているわけですが、外のほうの幾層かは実は狭義の「私」ではなくて「私の家族」だったりですね、その上の層は「私の会社」だったり「学校」だったり、「私の町」だったり、もっと外側は「私の国」だったりね、見方を変えれば「日本の文化」とか「(マザータングと言う意味での)言語」だったり、もっと外は「民主主義」とかですね、「宇宙船地球号」とかね、だったりするのかなー。
つまりね、そういうすべてのものが実は全部一体で一個の自我を形成している。(ただし、この全てのもの、つまり世間とか宇宙とかいうものは、各自の認識の中にしか存在しないものなんですけど。つまりそれぞれの主体によってすこしづつか、かなり違っているわけです。)だから、自他の区別というのは場面によって、どこの層で区切るかによって違うとは考えられないだろうか(自問)。
もしそうだとすると、ある層の皮が軟弱だと、そこから外に対して自己、自我が主張できない。それはひいては核の部分も弱い壊れやすいものにしてしまう。
だから自分が属するコミュニティーのアイデンティティーが曖昧だと、同時に芯の部分の自分個人のアイデンティティーの存在も不安定にならざるを得ない。と、こう考えられないだろうか。
具体的に言うと、「日本」または「日本人」なるものが一体何者かが曖昧だと、ぼくたち一人一人のアイデンティティーの硬度もその分減殺されてしまう。
(警告)以上はイメージ写真で実際とは異なります。
97/10/17
まず、個人のアイデンティティーも社会集団のアイデンティティーもその人の心の中にあるのですから、そもそも、客観的な社会集団のアイデンティティーなるものは存在しない。で、安定的な個人(のアイデンティティー)の確立には、その人の属している社会集団に対する認識(社会集団のアイデンティティー)がその人個人にとって確かで、かつ、その人のその集団への帰属意識が安泰であることが必要なのではないか。
例えばぼくはK町に住んでいますが、ぼくという人格とK町とは全くつながりがないと感じています。だからここのところは確かに欠落している。これがなぜなのか考えてみると、K町だろうが、隣のS町であろうがほとんど何の違いもないからです。ぼくはたまたま物理的にK町に住んでいるにすぎない。だから、このレベルの話は、いわばどうでもいいことで、アイデンティティーの問題にはならない。
ところがたとえば、ぼくは日本人であることを強く意識しているし、日本人であることに誇りを持ちたいと思っています。日本と日本以外の国では、文化的に、精神的に、違いがあると感じていて、しかも、ぼくがこの文化、精神に属している、または属していたいと感じているからです。ぼくが問題にしているのはここのところです。
97/10/19
ぼくは、仕事の関係で、イギリス人やアメリカ人と接する機会が多いのですが、一つ非常にはっきり言えることは、彼らが自国への帰属意識を非常に強く、しかも自覚的に持っているということです。日本人ほど、国家、自国文化への帰属意識が希薄な(実はねじれているのかもしれないが)国民は少ないとよく感じます。これをどのように説明したら良いのでしょう。
個人が強い自我を持つためには、自分が属する社会集団、特に国に対する確かな認識(「自国のアイデンティティー」とでも呼ぶべきもの)を持っている必要がある。
自分の国がいったいどういう国なのかという認識は、実は自我の一部だからだ。それは、私の外側にあるのでは無く、内側にある。この部分が弱いと、その分自我はもろくなる。
だから、私が私の国に属していると同時に、私の国が私に属しているのだ。
人は、独り素っ裸で宇宙に存在することは出来ない。それはまだ私でもあなたでもない存在だ。一個の自我として成り立つためには、その人なりの衣服をまとい、その人なりの食べ物を食べ、その人なりの言葉で話し、その人なりの感じ方や考え方を持たなければならない。そしてそれらはみな、彼という孤立した存在のみから出てきたものではなく、彼の属する社会集団と彼との関係から初めて生まれたものだ。それら、彼を彼たらしめるために彼と関係したものの総体を、一くくりにする社会単位の代表として国がある。(ある人にとって、それが東北地方であっても一向にかまわない。同じことです。)
だから、ぼくは国の存在を強く意識する人が、そうでない人よりも、個として確立していないとか、自我が弱いという意見には反対だ。むしろ逆で、自立、個の確立、強い自我に価値を置く人ほど、しっかりした国家観を持とうとする。
西洋人が一般に日本人より強い自我を持ち、同時に日本人より強い自国への誇りを持っているのはそういう事情による。
外敵からの脅威を否応無く強く感じざるを得なかった明治の指導者たちが、今の日本人よりも、いや、今の日本の政治家たちよりも、はるかに強い個性を持っていたのも、同じ事情による。
ついでに: 河合隼雄は、個の確立を、自分の全てを飲み込もうとするグレートマザーから抜け出して(無意識からの離脱)、さらに父親に象徴される文化的社会的規範からも自由になった後、獲得された自我と世界との間に、改めて、新たな関係を結ぶことだと言っている。(この、グレートマザーから自己を切り離す力の源泉が父性だと言っています。)
この最後の段階、すなわち自我と世界との関係の確立というところが、アイデンティティーのパラドックスを解き明かす鍵になるのではないかと感じます。
隣の人と自分とがいかに異なっているかを意識することと、自国の文化が他国の文化といかに異なっているかを意識することとは、心的態度としては、同じものなのでしょう。対立するものではない。
強く自分という個人を他者に対して主張できない人が、強く自国の立場や自国文化の良さを他国の人に主張できるはずはないし、その逆もまた真なのでしょう。
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最終更新日 : 平成十五年二月二十日