戦後日本の文化的特徴を要約すれば、それは「消費文化」の台頭と目覚しい発展であった、と言って間違いではあるまい。
消費文化の発達を強力に後押ししたのがテレビ文化である。いや、テレビは企業の広告によって成り立っているのだから、正確に言えば、消費文化とテレビ文化は一体をなすものである。どちらがどちらを後押ししたわけでもない。
このことは先進諸国一般について当てはまるが、日本ほどよく当てはまる例はほかにない。日本人のテレビ視聴時間は他国の人々と比べてずば抜けて長いのだ。
日本の広告業界が2つの巨人によって牛耳られてきたことはよく知られている。中でもD通が他を圧倒的に上回っている。売上高においてもそうだし、だから当然、影響力においてもである。
つまりD通が戦後日本の文化的潮流をリードしてきたと言っても過言ではない。広告という資本主義経済の一要衝を占めることで日本の経済産業をリードしてきただけではなく、同時に文化的側面でも大きな影響力を行使してきたのである。
それを可能にしてきたのは、彼らの広告業者としての優秀さである。多くの優れたクリエーターをひきつけ、使いこなした。また、日本社会の動向に優れた洞察を持って、顧客の広報・広告企画、自身の経営戦略に生かしてきた。
世相、時流を的確に先読みするだけではなく、時にはそれらを誘導し、流行を創り出すことさえあった。
その意味では、トヨタやソニーといった国際的優良企業はもちろん、日本国政府にも劣らぬ影響力を日本社会におよぼしてきたとも言えるのである。
さて、この文化エリート集団が、これからの日本社会のキーコンセプトとして掲げているのが「スローライフ」である。
世界を見れば近代工業化社会が地球環境の悪化を招いて行き詰まり、国内を見れば、それに加えて戦後の猛烈な経済効率主義が政府、企業、家庭のあらゆる局面で破局を迎えている。彼らの提案は、至極妥当である。さすがD通、よく気がついた!
私の本音を言えば、そんなこと今更気が付いてもちっとも褒めるに値しない。遅すぎる。しかし、世間を見渡せば、未だに気づいていない人たちのほうがはるかに多そうであるから、やはりD通の「先見性」を認めておこう。
そう、世間一般は未だに20世紀の惰性から抜け出していない。最近のテレビニュースの文化面のハイライトは六本木ヒルズのアートイベントである。
六本木ヒルズそのものが、大きく見れば遅れてきた20世紀文明の遺物であるし、国内の文脈から言えば戦後バブル経済の狂い咲きである。
そのアートキャンペーンに引っ張り出されて大当たりしている村上隆は、いまでこそ世界中で大もてであるが、それはどう見ても芸術愛好家の一時の退廃的な悪ふざけとしか思えない。いままでどんな前衛でも、つまるところ自然の美しさの再現か、さもなければ、生身の人間の喜びや苦悩の表現であった。村上のツルンとした「アート」にはそれがない。徹底的に排除されている。それが「新しい」と受けたのだろう。しかしその新しさは、明らかに20世紀文明の究極の到達点という意味での新しさであって、その先の時代を代表するものでは有り得ない。
あんなものでよければ、日本に五万といる二流の漫画家やイラストレーターたちが、今までにいやというほど描いている。西洋の美術鑑賞家は日本の漫画雑誌を見たことがないから、村上の「アート」を見て衝撃を受けたのだろう。日本の美術愛好家は、西洋で受ければそれを支持する。いまに化けの皮がはがれるのは明らかである。
さて、そんな中で、D通は「早くも」スローライフの旗を振っているのである。
昨年遅く彼らは汐留シオサイトという最新のビルに本社を移転した。その一画にカレッタ汐留という「文化施設」を立ち上げた。施設の詳細は省く。その施設のコンセプトを「スローライフ」として、シンボルに巨大な亀の甲羅を模した噴水を作ったのだ。
実はここからが本題である。一気に結論へ入ろう。
D通の文化エリートたちの洞察力が本物だとしたら、彼らはこの亀のもつ皮肉に気が付きつつ、この亀をここに造らせたのだろう。この亀の皮肉は、彼ら自身へ向けられた自嘲的な皮肉である。
そもそも彼らの新しい城である汐留シオサイトも六本木ヒルズと同じ同期の仇桜である。これもひとつの象徴である。
「スローライフ」が真に意味するものは、経済効率至上主義の終焉である。大量生産、大量消費、大量廃棄の終焉である。そして、大量消費のないところに、公告業が生き残れないのは明らかである。
亀甲は、彼らの時代の終焉を予言している。
おそらく彼らは気づいている。どう見ても、それくらいの洞察力を持ち合わせていない連中ではない。これは皮肉ではない。いつの時代でもエリートは、自覚しつつみずからの没落を迎えるのである。
最終更新日 : 平成十五年十月二十七日