伊丹さんいいですね。ぼくあの方のファンで、若いころずいぶんエッセイ読んだのです。「女房を母親と思うな」というのもずっと昔から言っておられる。
番組(98/9/6 「大前研一のガラガラ日本」)の結論として大前さんと伊丹さんが合意したのは、日本には大人がいなくなった、いや、母親はいるのだが父親がいなくなった、ということ。
それと並行して伊丹さんが言っていたのは、太平洋戦争後、日本がそれまでやって来たことは全て悪かったとしてしまったために結局倫理規範を失ってしまったということ。手元に残ったのは拝金主義と快楽主義。この二つで、50年間ずっとやってきてしまった結果が今の日本だということです。
つまり彼は、ある社会の倫理規範はすなわち父性によって保たれると言っているわけです。
しかし実は今ここですごいことに気がついてしまいました。
つまり、伊丹十三がエッセイストとして長い間主張しつづけてきたことの一つがこの父性の重要性であったということは、これは今更気がついたことじゃないし、おそらく、彼の本を多少まじめに読んだことがある人ならたいてい認めると思うのですが、今気がついたのは、彼が映画監督になってからずっとやってきたのは宮本信子演ずる女の物語だったということ。そして、考えてみると明らかにこれには逆のからくりがある。
つまり、その女主人公が全身で訴えているのは、まさに父性の尊さではないか。夫亡きあと信念でラーメン屋を再建する女、断固不正と戦う税務査察官、または弁護士。今度(「マルタイの女」)の女優も断固戦うらしい。アゲマンですらいわば権力と戦って自己を貫く話だ。
父性というのは言うまでもなく男の専売特許ではない。現在の日本ではむしろ男に父性が足りないということは、ここで重要な鍵になるかもしれない。また、女に父性を発動させるほうがよりドラマチックだし、教育的効果も高いのではないか。
ここまで伊丹十三は意識してやっているのだろうか。ちょっと本人に聞いてみたくなりました。
そして、その主演女優は伊丹さんの女房である。つまり、伊丹十三は女房を母親と思ってはいけないと思うあまり、女房に父親を求めてしまったのか。
「女房は父親と思え!!」
97/10/10
先日テレビで「スーパーの女」を見ました。映画で見損なっていたので、初めて見ました。
この映画はきっと伊丹監督作品のなかで最もよく上の分析に当てはまるものではないかという感想を持ちました。この数日前に封切り直後の「マルタイの女」も見たのですが、「スーパー」ほどは当てはまらなかった。「スーパー」を見て、初めて「ここまで伊丹十三は意識してやっている」ことを確信しました。
次のエピソードを見ればよくわかります。
そのスーパーを良くしていこうとする時、最大の障害になっているのが肉屋、魚屋の古い職人カタギ、職業倫理であることが明らかとなる。どうしてもそれを取り除かなければならない。しかし、当然、職人たちは猛反発する。津川雅彦扮するスーパーの専務は、優柔不断でこれを正すことが出来ない。勇気を持ってこれを遂行するのが、スーパーの女=宮本信子なのです。
大きな抵抗にくじけず、勇気を持って断交することもさる事ながら、そのスーパーをだめにしている根本的な原因が、この職人たちにあるのだと理をもって突き止めるのも、これみなぼくの判定に従えば父性の機能です。
「スーパーの女」は、父性豊富な「スーパーウーマン」、「超女」でした。
ちなみに、「マルタイ」の方では、津川雅彦はしっかり父性を発動していました。
すなわち、彼はテレビ局の偉いさんで(違ったかな?)、妻子ある身でありながら長年主人公の女優と関係をもっている。これを、悪党の弁護士に嗅ぎ付けられて取り引きに利用されそうになるのだが、女優が突っぱねてしまう。ここのところの突っぱね方は、今は細かくばらさないけど、父性的ではなくて女性的。これを津川が打ち明けられてどう反応するかというと、オーケー、自分は正義のために生活のリスクを引き受ける、と言うのです。これ父性的。
(98/2/15 伊丹十三氏のご冥福を祈ります。)
最終更新日 : 平成十五年二月二十日