ラヂオの時間 or 日本式意思決定


97/11/23

今日、「ラヂオの時間」見てきました。大笑いしてきました。15歳の息子もいっしょだったのですが、彼もとても面白かったと言っていました。

大笑いはしていたのですが、頭の片隅で痺れのようなかすかな痛みを感じていました。

日本の政治といわず、行政といわず、企業経営といわず、この国のあらゆる集団的意思決定が、まさにこの「ラヂオの時間」のごとく行われているのです。

三谷監督は、それを意識してあの映画を作ったに違いない。それはウガチすぎだろう、とあなたは言うかもしれない。しかし、きっとウガチ過ぎではない。彼は、「総理と呼ばないで」を書いた人です。

あのテレビドラマは、コメディーにしても、現実の政府機構をあまりに無視して作られていたため、かなり物足りない出来栄えでした。もうちょっと大人向きに作ってもらいたかった。がしかし、それでもなお、ぼくはあのドラマ好きでした。

その場限りの思い付きで動く日本社会の滑稽さがテーマであったわけですが、それを、日本国最高の意思決定者である(はずの)総理大臣に演じさせたところは、三谷幸喜独特の「社会性」だと独り感心したものです。

つまり、この点におけるこの国のお粗末さは中途半端なものではない。筋金入りのものです。その辺の二流三流のヘッポコ会社で観察されるだけではなく、国家経営の次元においてさえ、一貫して観察される現象です。

ということを三谷は彼一流の軽薄な語り口で訴えていた、とぼくは思う。

そういう経歴の作家ですから、「ラヂオの時間」で彼が表現したかったことが、単にラヂオ製作の現場の可笑しさにとどまっていた筈がない。あれが、寓話でなかった筈がないのです。

さらに、彼の代表作は「古畑任三郎」シリーズです。推理ドラマを書く作家というのは、起承転結に強いこだわりを持つ筈です。でなければ推理ドラマは書けない。だから、三谷は勿論「ラヂオの時間」で展開された行き当たりばったり式のドラマ制作に肯定的な創作観を持っている筈がない。つまりああいうやり方を批判している筈です。それでいながら、ああいうやり方をある面で賛美しているかのような印象を与えますが、あれはきっと、彼が暮らしてきたテレビ界(ラジオ界の親類)に対する愛着と、彼が一方で持っている日本的寛容から出ているのかもしれない。

そういう訳で、ぼくはあの映画を見て、ただ笑っただけではなく、違った意味で堪能したわけですが、ただ、やっぱり物足りなかった。ああいう、絵に描いたような(マンガのようなと言うべきか)ハッピーエンドで終わらせてほしくなかった。唖然とするような、物凄い破局に至る大ブラックユーモアに仕立ててほしかった。そうすれば、その寓意も強さを持っただろうし、もっと味わいのある重い作品に仕上がったのにと、残念でならない。それとも、あの辺が三谷幸喜の限界なのかしら。

彼の次回作に期待します。

それにしても、日本の意思決定方式をガラッと改めないと、ホントに破局がやってくるよ。いや、破局から立ち直れないよ。どうしよう。
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最終更新日 : 平成十五年二月二十日