さてまず客観からですが、世の中ではほんとによく「客観的」という言葉が使われます。そして、これがしばしば「正しい」と同義であるかのごとく使われているようです。これもあながち間違いではないのですが、もちろん、この二つの言葉はもともと別のことを意味します。
逆に「主観的だ」という形容は、ほとんどの場合、「それはお前の勝手な思い込みに過ぎない。だから正しいとは言えない。」という意味で使われるようです。
これはおそらく、多くの日本人が、主観的であってはならない、客観的であらねばならないと、小さいころから教えられてきたからだろうと思います。
ぼくが高校の時に教わったある国語教師の話です。後に知ったのですが、彼は予備校の講師もしていて、ぼくの高校以外の受験生にも結構有名だったらしい。この人の口癖が、「ソレハアナタノシュカンデショ。」というやつでした。これを彼は、生徒の意見が正しくないと主張するときの枕詞として常用していました。
客観的であるということには、二つのことがあると思います。一つは、事実、もう一つは論理性です。二つとも、価値観を含んでいません。
さて、事実ですが、これはナマのデータのことです。ナマというのは加工していないということ、解釈が入っていないということです。一般に「事実」というと、しかし、解釈、判断の入った情報のことも含まれることが多いと思いますが、ここではそれが入っていないものに限って事実と呼びます。(このフォーラムでも 過去、歴史的事実だとか報道における事実などに紛れ込む解釈についての議論がたくさん有りました。)
次に論理性ですが、これは、推論における普遍的な規則性とでもいうものですね。これも、言語や文化、時代や価値観が異なっても絶対に変わらないものです。
そして、論理的であることは、事実かどうかには無関係です。例えば、「今日は 3月10日だとする。そして、ぼくは3年前の3月10日に生まれたとすると、今日はぼくの3歳の誕生日である。」というのは、論理的にまったく正しい。でも実際は、ぼくは3歳でもないし、今日は3月10日でもない、というわけです。
以上より、客観的な言説というのは、事実に即していて、論理的に整合性のある言説ということになります。
97/09/29
次に主観のほうですが、これも二つに分類することが出来そうです。
一つは、感覚、感情に属するもの。例えば、おいしい、まずいとか、悲しい、うれしいなどなど。
もう一つは、直感、価値観、信条、解釈に属するもの。例えば、神の存在を信じるか信じないか、性善説を採るか性悪説を採るか、憲法9条は改正すべきか否か、今から3ヶ月後に円はドルに対して上がっている(と予想する)か、下がっている(と予想する)かなどなど。そして、それは何故か。
これらはいずれも、ある人にとっては真であるが、他の人にとっては偽であるか もしれないことです。誰にとっても真だとは言えないことです。
ここで注意を要するのは、第二属のほうです。
第一属のほうは、仮に「純粋主観」とか「本源的主観」とか「ナマの主観」など と呼んでもいいかもしれない。つまり、主観だけで成り立っていて、客観的要素を含んでいません。これらはあまり論争の種になるようなことではない。たけし 君がアーモンドチョコレートをうまいと思おうがまずいと思おうがそれはたけし の勝手でしょ。
一方第二属のほうは、論理や事実(または事実と思われるもの)を組み立てて、 あるいは加工して構築する主観です。これが世の中の論争の種になる。
同じ事実、データを与えられても、そこから導き出される結論は、推論する人によって大いに異なりうる。そうだ、わかりやすい例としてはエコノミストが集まってやる景気見通しなどを思い出してください。失業率が半年でどれだけ増えた という客観的データから、どのエコノミストも同じ結論を出すわけではないことはみなさんご存知の通りです。
意見の異なる二人のエコノミストの議論を聞いていると面白いことに気づきます。一方が他方に攻撃、または反論する時には、まず相手のよって立つ事実が不十分 か、またはそれらに間違いが有るのではないかを突きます。でもお互いちゃんと したエコノミストのことですから、そんな基本的なところで間違うようなことはまず有りません。
次に、相手の論理的矛盾を突こうとしますが、これもたいてい勝負がつかないものです。それぞれ、それなりに筋が通っているものです。ここまでは、客観的な 真偽の問題ですね。
つまり客観的真偽のレベルでは、たいていの場合、どちらが正しいか判定できないのです。こと経済の問題においてすら。で、結局、討論の聴衆は、主観的にどちらの説を採るか決めざるを得ません。どっちがより説得力が有ったと感じたか、 本当らしく聞こえたかということです。ま、たいていはどっちが正しそうかよく分からないで終わります。
世の中の問題というのはほとんどが、この景気討論のようなものです。すなわち、客観的な真偽で決着のつかない問題です。
でも、それをはっきり認識している人は案外少ないように見えます。
97/09/30
これは間違った国語教育のせいだと思います。
国語の教育は、(漢字や文法を教えることに加えて、)各生徒個人の主観を磨くという目的を持っているはずなのですが、実際に国語の授業やテストでやっていることは、主観を殺して他人の意見に迎合することの訓練です。小学校から高校で、これを徹底的に叩き込むのです。
例えば、
「この時の花子の気持ちをもっともよく表している文を次の中から選びなさい。」
とか、
「たけしがアーモンドチョコレートを好きになった理由を30字以内で答えなさい。」
物語の登場人物の気持ちを考えさせたりすることが悪いなどと言っているのでは有りません。主観的な設問をしておいていろいろな答えを大事にするというのなら良いのです。しかし、実際は、一つの答えしか想定せず、それ以外をバツにするのです。これが問題だと思うのです。
確かに、たいていの場合、問題を作った大人が想定する答えが一番妥当なものでしょう。しかし、主観的なことに関する質問にはさまざまな角度からの回答が有得るということ、そして、場合によっては、少数意見のほうに大切なアイデア が入っていることだって有るということを教えなければいけないのです。まして、 相手は子供です。突拍子もないことを考えることだって良くあるでしょう。それぞれの子供が、自分の頭で考えることが大切なのです。
自分の 考えが平均的な考えと違っていることを理由にバツをつけられるという経験を何年にもわたって押し付けられたらどうなるか。
主観的な問題にも客観的な答えが有るという幻想を持つことになります。また、なるべく、「客観的な」つまりは平均的な答えを思い付くように努力する癖がつきます。そして、明らかに客観的な答えがなさそうな問題に対しては自動的に思 考を停止させる人間が出来上がるでしょう。
97/09/30
この題の冒頭で話した高校の国語教師などは、客観と主観についての正確な定義を持っていたとは思えません。いや、あの教師に限らない、日本の国語の教科書 や授業がああなっているところをみると、文部省の方々や、教育学者がその辺の 正しい認識を欠いているのではないかと疑わざるを得ない。少なくともそういう人たちが、子供たちの言語における主観的な思考力や表現力を育てようという意 志を持っていないことは疑う余地がない。
文部省や教育学者がそんな状態ということは、日本という社会が、主観と客観をはっきり区別していないということ、つまり、「自」と「他」が未分化の状態な のです。人間でいうと幼児の段階です。
ではつぎに、主観と客観、「自」と「他」が混同され、しかも、客観的であることの重要性ばかりが強調されるとどんなことになるのか、もうすこし考えてみましょう。
97/10/03
1.言動に一貫性がなくなる
つまり、御都合主義。客観的でありさえすればよく、自分というものがないのだから、いくつもの客観的な説(すなわち、事実に即していて論理整合性のある説)から、その時々、最も都合のいいものを選ぶことになるでしょう。
2.権威、権力に弱い
上と同じ理由から、最も強そうな者につく。
3.人格に統一感がない
言動に一貫性がないわけですから。
4.多数決に頼りすぎる
主観的な答えしかないところに無理矢理「客観的」な正解を求めようとすると、 多数決によらざるを得ない。妥協、調整の濫用。
5.独創性を欠く
自分の意見を生み出せないのですから。
6.先見性を欠く
結局他人の後追いなのですから。
7.知識偏重
過去の事実を知ること、先人の思想を追うことが重要視されるのですから。
8.重箱の隅をつつく
発想ではなく、哲学ではなく、事実と論理性だけが拠り所なのですから。
9.ヴィジョンが無い
独創性も、先見性も無いのですから、ヴィジョンを提示できるはずがない。
つまりわかりやすい話、大蔵省の役人のような人物像が最も典型的な例として浮かび上がります。
現に、日本の学校教育の最高の成果である人たちが大蔵省の役人になる訳ですから、ぼくの以上の議論は非常につじつまが合っているように思います。
最終更新日 : 平成十五年十月十一日